何が本当なのか 17


蒋介石が北伐を開始。高まる反日と侮日。
もともとが、中華思想をもつ中国。
こまごまなことは言わず約束や契約は、
その場に応じて変えていくのが「大人(たいじん)の風」という国柄。
なんて言ったって君子が豹変してしまう国なのである。

その様な中で、満州の日本人たちは日々働いていくことすら
ままならぬ状態に追い込まれてくる。
ひどい場合には日本人の工場で働いているだけで警察に捕まることとなる。

このような中、邦人たちは日本総領事館に毎日のように窮状を訴えてくる。
しかし、交渉相手である張学良は南京国民政府をスケープゴートにして
交渉に応じない。

日本政府は、ひたすら厳重抗議を繰り返すばかり…。
そうした間に、工場が焼かれたり邦人の誘拐・殺人が頻繁に起こったり、
在満朝鮮人への迫害も横行し、
そのことが日本の朝鮮統治へ対する不満ともなっていった。

このようになって来ると、もう在満邦人の我慢も限界に達したのである。

そして、1931年夏に起こったのが、
中村震太郎大尉虐殺事件と万宝山事件事件である。
参謀本部部員の大尉は、予備役騎兵曹長井杉延太郎を伴い、
ロシア人と蒙古人を道案内に東部内蒙古方面を旅行中であった。
大尉は、張学良発給の公式の旅券を所持していたが、
捕らえられ裁判にもかけられずに銃殺され、遺体も焼却されたのである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%A4%A7%E5%B0%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

後者は、1933年(昭和8)5月、長春の西方約30キロの
万宝山付近に約200人の朝鮮人が入植し、
水田耕作に必要な灌漑設備(用水路)建設工事を地主に無断で始めたことから、
付近に住む中国人農民との間に対立が生まれ、
そしてその対立は、双方とも実力を行使するようになるまでエスカレートし、
急遽駆けつけた日本人警官隊が中国人農民に機関銃弾を
浴びせるような事態になった。何故なら、当時、朝鮮人は法人であり、
日本が保護する立場にあったからである。
さらに大変なことに、この事件を契機に
在朝中国人に対し報復が行われ、
騒ぎは7月3日仁川(じんせん)からはじまり、
瞬く間に京城(現ソウル)・元山・新義州にひろがっていき、
5日夜平壌ピョンヤン)に及んだときクライマックスに達した。
彼らは入れ替わり立ち替わりに略奪・放火・破壊とあらゆる暴動を働き、
多数の中国人が殺傷されたのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%AE%9D%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

こと、ここに至っても幣原外相は「日中友好」を固辞して動こうとはしなかった。
もうこうなっては満州事変への道は回避のしようが無くなって行ったのである。

何故なら、77年前の世界は、自国の権益を護るために
軍事力を行使することは、正当な国際法上の権利であったからである。