復興再生債

復興再生

 このことを唱えている人たちはどこまで頭が痛いのであろうか?

 復興債のために消費税の引き上げなどはあり得るのだろうか?

 3%の時に、慣れないわが国民はさほど痛くは無いと感じてしまったのではないか?

 実は、未だアフターバブル時期で頃であって、痛みを感じにくかったこともあったが、それを良いことにして設定し、経済へ本格的にダメージを与え、誰もが実感したのは5%の引き上げであったろう。このことを政治家が言及しないのは仕方がないにしろ、民間が口にしないのは何故だろうか?

 財政赤字がその根底にあろうが、経済が流通しない中での税制もくそもないだろうが!何しろ復興債は一時的(数年から十数年かかろうとも...)な支出に限られるはずのものに対して恒久的な税制改革で対処とは何事か!ODAの償還金だってたくさんあるはずだし、いくらでも知恵は出すべきである。脱官僚はいいが、もともと無い知恵は出しようも無い。意地を張らずに利用すべきは利用すると割り切って官僚の知恵を総動員すべきであろう。

 アフターバブル・・・、空白の・・・、を再生できなかったのは政治の無策ではあるが、それをこれまでの状況に追い込んだ本当の犯人は何処にいるのであろうか? その根源は、政治の未熟、無策に次いで小泉政権から行われた経済に対する或る意味竹中と言う人物が行った自らの学説による実験ともいうべき政治実践?にあったのであろうと推測する。当時から、榊原英資に親近感を持つものが非常に多かったであろうし、私自身もはっきり言って榊原の考え方を当たり前と考えていた。それを押し切って強行する意味は小泉にあったのだろうか?もっとも竹中には大いなる作戦と、野望と、目的・偽装があったのであろうとは推測するが...

 自由化の意味の何もかにもを履き違えて「日本社会」のあり方を全く変えてしまった。当時から既にあった地域コミュニティの崩壊を招く危機的状況...そんなことが日本中にある、まさにその時期に、打ち出された社会に対して全く無知な者達、経済学者による机上によって打ち出した施策の愚!!!
 結果として、そこには企業倫理や個人の道徳心も今後とも崩し続けても、意に介しないような人間を生産し続ける温床となりかねない恐れが非常に高いものを植えつけたものと考えるが、いかがであろうか。

古代史の歴史学者である私は、実はこのようなことについて良く考えることがある...その度に日本で最初に経営コンサルタントと名乗ったと聞いているし、30代で既に紳士録なんかに名前を連ね、道徳的経営などを提唱していた、私にとっては常にプレッシャーの存在であった今は亡き父の顔がチラチラとするのは気のせいか?
 ただ、父は私の書く歴史の論文にはすべてに目を通して褒めていたと母から聞かされていたが、常に煙たい存在であったことには一生変わりが無かった。ふと思う、今の私も家族にとってはそうなのかもしれない...、その意味で不器用な父親の典型であることは父と同じであるかも知れないのである。

 遊びがてら、ネット普及前の人間である親父の名前で検索すると結構ヒットする!
http://iss.ndl.go.jp/books?any=%E5%A0%80%E8%B6%8A+%E5%85%85
 因みに充は元の名である。ある時からペンネーム「一越啓」を一時期使い、その後「昌章」のペンネームにし、最終的には戸籍をそれにした。父には父の生まれ育った環境があり、いろいろな思いがあって名前を変えたのであろうことはいろいろと推測できる。今、私が親から与えられた自分の名前を弄ろうなどとは思わないことを考えると複雑な気持ちになる。

 今のこの状況をみていると、父・母が多感なときを過ごした時代を思い浮かべるといろいろなこと、聞かされたことを思い出す。『奥の細道』の中で芭蕉内藤新宿(現在の新宿)から振り返ると江戸湾が見えるくだりがあるが、戦後焼け野原となった新宿からは海が見えたと父は語っていた。江戸湾と戦後の東京湾とではそこそこ距離は遠くなってはいたであろうが、それでもみえたというのである。

 歴史学者は、本当に現場に立った感覚を大切に考えなければならないと思っている。古代の地に立てる訳ではないが、時代感覚を持つことが肝心であろう。

 いろいろな思いでまとまりが無くなったが、すでに多く語られているが、自粛に次ぐ自粛!これが問題ではないか!影響の無い関西や中・四国や近畿・中国。九州では大いにバブル化出来れば万々歳である。

 関係なく、忙しさ故、あまり遊びに行ってはいなかったが、今年は敢えて思いっきり遊ぶことを宣言してみようではないか!できるかな...?

 友人でこんなことをして全額義援金として送ろうとしている者がいる。
http://www.localsuperstars.com/
 彼は、3月11日に大震災があって、18日にあった時にはすでに企画の大枠を決めていて、コンサートの場所の確保などを既に終えていた。なんという行動力であろうか。頼もしい限りである。

 思いつくままにまとまり無く書き連ねたが、日本中の殆どの人々が自らの無力さに忸怩たる思いをしているであろう。私もその一人ということか。