江戸 あれこれ 1

 そろそろ浮世絵も近づいてきたので、ここで展示の準備・及び展示への転用も兼ねてここでまとめて行きたいと思う。少しくお付き合い戴ければと考える。

 江戸における独自の町人文化の成立には、「明暦の大火」が大いに関連しているといわれている。すなわち、明暦三年(1657)正月十八日に発生した未曾有の業火は江戸の町をなめ尽くし、鎮火したのは二十日の朝のことであったという。この大火による被害は甚大であったが、ために復興都市計画が実行されて、江戸が大改造されることとなり、独自の価値観に根ざす都市へと再生し、独自の文化を形成していくこととなったのである。
 それまでは、江戸では上方文化の移入ばかりに腐心していたのである。そして、下り物(上方から江戸にもたらされる文物)が幅を利かせていた(言ってみれば、上方から文物がやって来てそれらがブランドとして江戸で有り難がられていたということであり、今日の海外有名ブランドと同じことである)。だから、これでは独自の文化などは生まれてくるべくも無かったのである。

 明暦3(1657)年は正月18日の昼過ぎ、本郷丸山の本妙寺から出火。関東特有の強い北西からの季節風に煽られ、火はたちまちに燃え広がった。湯島・駿河台・神田・日本橋が焼き尽くされ、当時の下町地区はほぼ壊滅した。しかし、これで火事が収まったわけではなかった。夕方になり、風が西に変わり、火災は東に広がり、吉原(当時は、中央区日本橋人形町付近。「旧吉原」とも。)、歌舞伎興行街である堺町、西本願寺までに及んだ。火災はなおも続く。業火は海岸沿いの諸大名の屋敷などを舐め尽くし、南は木挽町(現在の歌舞伎座のある辺り:関係は無いが、我々関係者には馴染みのあるところだ。何故なら、日通の美術倉庫があり、そこにトラックを入れて築地などへ繰り出すからだ!)までに達し、翌19日午前2時ごろにどうやら鎮火した。
 しかし、これは最初の大火。これに引き続き、19日午前11時過ぎ、今度は小石川新鷹匠町から出火。またも強い季節風に煽られて、御茶の水、小石川、竹橋と火は燃え広がり、竹橋から江戸城は、堀一つ挟んだだけである。その堀を難なく越えた火災は、天守閣、本丸、二の丸を炎上させた。火災は飯田町、市ヶ谷、番町などの山の手にまで及び、途中で西風に変ったため、京橋地区にも累が及んだ。
 第三次の火災は、同日午後四時過ぎ、麹町五丁目の町家の出火から始まった。今度は、桜田、西の丸下、愛宕下という大名の屋敷の並ぶ一帯を火が襲った。芝口まで達したところで海岸に出て、ようやく鎮火したのが、20日の午前8時頃という。
 これがいわゆる明暦の大火である。死者は10万人にも及び、ほぼ江戸の中心部は壊滅状態になった。江戸幕府創設以来、初めての大災害である。
 さて、この「明暦の大火」であるが、火元に関しても、火事の原因に関しても、さまざまな謎をはらんでいる。まずは、この大火が「振袖火事」とも呼ばれるようになった経緯について、次回に触れることとしよう。
それにしても、この悲惨な大火が江戸庶民文化を生み出す源泉とは…!
                                                つづく