江戸 あれこれ 2

 明暦の大火の経緯

 話は、明暦元(1655)年一月、大火の2年前にさかのぼる。本郷丸山(現在、文京区本郷5丁目)本妙寺にひとつの棺が持ち込まれたのであった。恋の病に焦れて亡くなった十七歳の乙女の棺であり、棺には娘好みの紫縮緬の振袖が掛けられていた。
 当時、葬儀には、生前お気に入りの衣装を棺に掛けるのが習俗で、その衣類は、墓穴掘り人夫の清めの酒代とされるため、古着屋に持ち込まれることとなったのであった。
 しかし、話しはそれでは終わらなかった。翌年の一月にも、十七歳の娘(一説に麹屋吉兵衛の娘お花)の棺に同じ紫ちりめんの振袖が掛けられていたという。こうなると熊さんハっぁんのレベルの話しでは済まない。そして、さらに翌年に、またしても、本妙寺に、十七歳の娘(一説に質屋の伊勢屋五兵衛の娘おたつ)の棺が持ち込まれ、同じ紫縮緬が持ち込まれることとなったのであった。
 住職は、この振袖の回帰を「娘御たちの思い」にあるとして、関係者にはかり供養することとなった。
 すなわち、運命の一月十八日、紫縮緬の振袖を前に供養が行われた。そして、供養のため、振袖を投火される。これにて、悪因縁を断ちとうというのだ。火の着いた振袖は、めらめらと炎を上げて燃え上がる。
 僧侶の読経の中、急に強い風が吹き付けたかと思う間に、振袖は炎とともに中天高く舞い上がる。風に持ち上げられた振袖は、本堂の瓦屋根まで達し、そこで火勢を増していった。たちまちの内に、あちらこちらから火の粉とともに業火が市中を舐め回るように火が吹き出し、本堂は屋根全体が紅蓮の炎に包まれる。そして、火災は寺だけではなく、隣近所の家屋敷にも飛び火して、煙と炎を吐いて燃え出した。

 1で示したように、この火災が、江戸全体を焼き尽くす大火となり、いつしか「振袖火事」と呼ばれるようになったというのが一つの説である。

 話としてはそれで面白いが、事実かどうか...?        つづく