何がほんとうなのか 10 戦後の嘘?

鈴鹿&富士のF1隔年開催ー

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070909-00000005-maip-soci

大変に喜ばしいニュースである。TOYOTAとHONDAが、F1GPの富士と鈴鹿の隔年開催に合意したという。実は、FOMからの提案であるという。しかし、この当初話が聞こえてきた時には、このことを両社が素直に受け入れるとは誰もが思っていなかった。
長年の宿敵であり、双方ともプライドの張り合い...。それ故、意地の張り合いが続き、この話は破談になると予感されていた。
それが隔年開催に一致したというから驚きである。
結局は、無意味な綱引きで、多額の開催権料の引き上げとその負担を回避したいという計算が出てきたのであろうか?
開催権を奪われた鈴鹿も何んとかして開催を奪回したいと考え、それなりに今度こそはと用意周到に計画をしていたことであろうし、
新たな開催権を手にした富士も、あの道を何とかしなければ交通事情という大弱点と、宿泊施設の問題も抱えている。
地元に落とす経済的効果は鈴鹿程にはないし、それをどう解消していくかがもう一つの問題であろう!
完璧な交通規制が求められることへの過重負担が影響したかもしれない。
また、F1を開催することがプラスだけでなく、環境問題を売りにしているTOYOTAの販売戦略にもへマイナスの効果をもたらすことは、F1富士開催にとって予想外の展開になったかもしれない。
互いに本音は一歩も譲れないのに、隔年開催で妥協するしかなかったことには何らかの理由があることは確かであろう。
また、08年度からシンガポールバレンシア、さらに韓国とアブダビというように、次々に新興国がグランプリの名乗りを上げ、このまま双方が希望していた1国2開催が現実的ではないという事実も影響している。
TOYOTAがF1開催権を独占すると言う欲望を引っ込めた要素のひとつは、
何時まで経ってもトップクラスになれない二つのF1チームのだらしなさにもある、とは穿ち過ぎであろうか。
たとえ鈴鹿で開催しても、HONDAが最下位争いをしていては失笑を買うしかなく、TOYOTAはF1最大の資金を浪費していると批判されている。
せっかくの地元GPでフェラーリマクラーレンの足元にも届かないのでは車会社としては開催する意味がない。
何時までも解消しない技術不足と昔のようには燃え上がらない国内のF1人気が重なって、双方の独占欲を弱めたのであれば良いことと歓迎すべきであろう。
とは言っても、赤字に悩んで隔年開催に切り替えたドイツと違って、毎年15万人もの大観衆が集まる我々日本人には朗報になった。
ただ、後は、勝負に勝つことが残されているけれど・・・。

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さて、本題に入ることとしよう!

私は、中学の時、歴史の教員から、日本という国はアメリカから見れば社会主義国家である、と言われて初めてそのような見方を知った。

すなわち、戦後日本の占領下政策というものが社会主義の実験場であったとは、今やよくよく知られた事実である。

アメリカ的な社会の中では絶対にあり得ない、財閥解体とか農地改革、労組の推進など資本主義に逆行するような施策が強行されたことの裏に何があったのか?
これらのことをGHQが強行推進したのである。このことに、まず疑問を持つべきであろう。

実は、日本国憲法制定の中心にあったホイットニー民生局長やケーディス同次長などをはじめとして、社会主義思想にかぶれた人物が当時のGHQに満ちていたのである。

今では考えられないアメリ共産党の存在をご存知の方がどれ程おられるであろうか?
このように言っても、ピンと来ない方も多いであろうが、次のように言うとお分かりいただけるだろうか?すなわち、彼らはいわゆるニューディール政策推進のベースにあった勢力なのである。
しかし、アメリカ本土では挫折し、修正資本主義では満足できなかったような人々が、大挙して戦後に日本に入り込んでいたのである。

戦後日本の出発は、実はこれらの人々による実験場としてスタートしたのである。
そして、それらがまずいと気が付いたアメリカ本国が、それらを次第に修正しようとする度に大きな軋轢を生んできたことは皆さんもよくよくご存知のことであろう。