〔この国の領土〕2

−200海里−

 現行の国際的な海洋に関わる取り決めが海洋法に関する国際連合条約である。平成6年に発効した世界の海洋管理の根拠法であり、沿岸域から深海底にいたる全海洋を対象としたものである。
 これにより、領海は12海里(約22.2km)、排他的経済水域200海里(約370km)、海底資源開発に関わる沿岸国の大陸棚は原則200海里とすることなど国家の管轄権が規定され、深海底開発の制限や海上犯罪への対応などが示された。また、各国の200海里外は人類の共同財産とし、如何なる国といえども独善的な開発は許されないのである。ただ、深海底開発に最高の技術を有するアメリカはこの条約は批准していない。自国に有利になる事象の芽は摘まないのである。そして、後に述べるように200海里に関しては、国内法で規定し、しっかりと守っているのである。
 また、現在ではわが国も領海は12海里と定めているが、日本近海の国際海峡(宗谷・津軽対馬大隅海峡)を特定海域として明治5年以来の3海里としたままである。これらは、わが国が領海を12海里と設定すると海峡のすべてが領海となり、通行するロシアの原子力潜水艦なども浮上して国旗を掲げて通行しなければならなくなるから自ら3海里と領海を狭めて自由航行路を与えているとしか思われない。わが国の主権はどこにあるのであろうか。政府は、主権よりも隣国との関係が大事であるとみられる。

 ところで、200海里に関連して、捕鯨問題に関わる日本の外交の体たらくを露呈した実に不様な事実がある。ここで、本筋からは離れるが、この国の外交がどのようなものであるのか、またアメリカという国がどのような国なのかを考えるため見直してみたい。
 昭和52年、国連の海洋法会議でケニアが「排他的経済水域」を提唱した。この提案は、領海の主張ではなく水域内の天然資源に限る支配権を設定するものであった。この提案は沿岸国の漁獲能力を超える余剰分は、他の国々にも権利を与えるというものであった。アメリカをはじめとする各国は、この提案が国際法として採択される前に、相次いで先取りする形で設定を宣言し始めた。政府は国際情勢に対応するための暫定措置として「漁業水域に関する暫定措置法」を定めた。しかし、既存の日韓漁業協定日中漁業協定に配慮して設定区域を限定し、しかも中・韓に対しては規制しないというもの。この措置は先の海洋法に関する国際連合条約を日本も批准する(平成7年)まで効力を持った。
 一方、アメリカはいち早く漁業保存管理法という国内法によって200海里水域を決定し、更にパックウッド・マグナソン修正法(以下、PM法)、ペリー修正法、ブロー法を次々に成立させた。ブロー法はアメリカ200海里水域内から外国漁船を締め出し取締を強化するもので、ケニア提案とは根本的に異なる。PM法とペリー修正法は、捕鯨国に対する制裁を目的としたアメリカの国内法である。
 昭和59年、ブエノスアイレスで開かれたIWC第36回総会では、わが国は国際捕鯨取締条約の規定に基づき、日本沿岸のマッコウ鯨捕獲枠ゼロに対する異議申し立てを行った。この年は自主規制として、400頭の捕獲を計画した。しかし南氷洋捕鯨に関して昭和57年総会で決定していたモラトリアル決議に異議申し立てを行えば、アメリカはPM法を発動してのわが国に対する制裁を見せつけ恫喝していたのである。
 8月中旬、ワシントンで行われていた日米捕鯨会議において、アメリカは「日本がIWCに異議申し立てを行い捕鯨を続ければ、アメリカは制裁措置として対日漁獲割り当てを、一年後に半減、二年後にゼロとする」という強硬な態度に出た。この当時、日本の外国での水産物漁獲高は約200万t。このうち110万t、1300億円がアメリカ200海里内での水揚げであった。捕鯨による生産高は沿岸と南氷洋をあわせて年間137億円あり、日本の遠洋漁業が壊滅的打撃を受ける米国200海里内全面漁獲禁止をカードに出され追いつめられたのであった。 8月下旬、水産庁南氷洋ミンククジラ捕鯨のモラトリアル決議に対する異議申し立てるための準備を始めていた。この年の11月にはアメリカで大統領選挙が予定されており、日米貿易摩擦やそれに関連する制裁法、あのいまわしいスーパー301条の発動に関する動きや、FSX(時期支援戦闘機)選定などの問題と相まって、日米関係は緊張が続き常に不条理な恫喝を受け続けることとなった。レーガン大統領の態度は終始強硬で、中曽根康弘首相の下、水産庁捕鯨業界は孤立無援に奮闘していた。世間で、ロン=ヤス関係と言われたあの関係に不審を抱いていたのは私だけなのだろうかと、当時思い続けており、周囲に語りかけたが中曽根人気にあまり相手にされなかったことを懐かしく?思い出す。このあたりは、現在の私の小泉批判と共通する所かも知れない。レーガンは断固として反捕鯨の立場であり、昭和56年7月に開かれた第33回IWC総会へ「人類の歴史を通じて鯨は畏敬と恐怖の対象であった。鯨は地球上の生物の中で最大の存在であり、最も神秘的な生物である。効果的な捕鯨規制政策を取らなければならないのは、鯨の持つこの神秘的な特性のためである」とのわけの分からないメッセージを送った。
 わが国は、魚を取るか鯨を取るかの二者択一を迫られた。この時点でまだ闘えば、アメリカの対抗措置が予想された。国際捕鯨取締条約のもと、IWCで話し合われるべき問題をアメリカは国内法の行使によってごり押ししようとした。これは国際的信義に悖る行為である。PM法が発動された場合、すでにアメリカに対して大幅に譲歩をしていた経済・軍事等すべてのカードをもって対決すれば、充分に闘う能力はあったのだが、日本政府はその外交能力も確固たる姿勢や気概を持ち合わせてはいなかったのは今も同じである。また、ペリー修正法に対して、わが国も対抗措置としての規制策を取った場合、水産物貿易は圧倒的に日本の輸入超過(貿易赤字)であったから痛手を負うのはアメリカの方であった。更にペリー修正法のガット(関税貿易一般協定)違反は明らかで、提訴すればアメリカの敗訴は濃厚であり、そうなればアメリカのガットにおける指導的立場は揺らぐこととなり、日米関係での主導権にも影響を与えたはずであった。実際に対抗手段を、社会党と、賛同した自民の一部からも国会提出の動きが出ていたが、寸前になり中曽根首相の近辺からの鶴の一声で潰された。
 この年の沿岸マッコウ鯨捕鯨は、IWCの決定した捕獲枠はモラトリアル発動期限の前に既にゼロであった。これに対し日本は既に異議申し立てを行っており、例年通り10月1日から出漁が可能であったが、これを見越してアメリカ政府は、9月半ば過ぎから「沿岸のマッコウ捕鯨船が操業すれば、米200海里内で制裁措置をとる」と警告していた。9月終わりにブラジルが、続いて10月2日にはソ連南氷洋ミンククジラ捕獲枠について異議申し立てを行った。政府は外務省を中心に慎重に協議を行い、申し立ての時期を検討していた。沿岸マッコウクジラ漁はIWC決定に拘束されるものではないのだが、漁期にはいっても出漁を見合わせていた。水産庁は頭数を明記しない操業許可証を準備し、10月も半ば過ぎになってから神奈川の三崎港と和歌山那智勝浦港から出漁となった。当然の権利行使であるが、アメリカは「一頭でも捕獲すれば、PM法により制裁を加える」との恫喝を繰り返した。政府は、最後の日米協議を行うこととし、11月1日から日本側代表の佐野水産庁長官とアメリカ側バーン海洋大気局長との間でワシントンにおいて日米捕鯨協議を再開した。日米ともアメリカの報復措置という事態を避けるために見解の相違について話し合われた。当初、アメリカ政府は歩み寄りの姿勢を持っているように見えたという。交渉の経過は公表されなかったが、クリーンピースや動物愛護国際基金などの団体へはその内容が漏洩していた(させていた?)ようで、マッコウ鯨捕鯨継続を認める形勢であるとして、これを差し止める訴えを連邦地裁に起こすと発表した。
 日米協議10日目の夜、日本沿岸のマッコウ鯨捕鯨を昭和63年から停止することによってアメリカは対日制裁をしないとの合意に至った。IWCでは昭和61年からの沿岸捕鯨禁止を決議していたから日米合意はこれを2年間延長することになった。この交渉で日本はマッコウ鯨の捕獲枠に対するIWCへの異議申し立てを取り下げた。日米合意では、沿岸マッコウ鯨捕鯨について、日本が異議申し立てを昭和59年年12月13日までに撤回し、そしてこれによりアメリカは同年と翌年のマッコウ鯨捕獲枠をそれぞれ400頭認め、日本が商業捕鯨禁止に対する異議申し立てを昭和60年4月1日までに撤回すれば、さらに昭和61年と翌年にそれぞれ200頭の捕獲を認めるとした。日本の沿岸マッコウ鯨捕鯨は昭和63年3月をもって終了することとなり、南氷洋ミンク鯨や他の鯨種についての交渉が難題として懸念されつつも協議は終了したのであった。
 が、この後にアメリカは謀略国家の本質をむき出しにしてくることとなる。アメリカは、200海里内漁業権に対するPM法の発動回避のため、日本に捕鯨を切り捨てさせたにもかかわらず、その数年後には「自国漁業の保護・育成」を理由として米200海里水域内漁獲割り当てはゼロにされたのである。このような事態を予測していなかったお気楽な政府は、日米捕鯨合意の後、PM法回避のために昭和57年IWCのモラトリアル決議に対する異議申し立ての取り下げを決定したのであった。
 このように、アメリカは国際条約で認められた「異議申し立ての権利」を牽制するため国内法により日本側に圧力をかけたのである。大国の前では国際条約とは名ばかりのものである。ところで、このIWCでの「異議申し立て」の制度というのは、実はアメリカ提案で生れたものなのである。昭和21年にワシントン開催のICRWの制定会議で、アメリカ代表がIWCの規制措置に対する加盟国政府の「異議申し立て権」を認めるよう提案。理由は、第一に捕鯨規制の修正・変更が、ある国に捕鯨条約からの脱退を強いることの防止策、安全弁。第二に、この規約によって、どの政府も脱退を考慮せずに規約遵守が可能であるからというものである。更に第三には、全般に渡って規制を施行できる委員会を維持するために異議申し立ての規約が必要だからである。このように、異議申し立ての規約を発案した当事国のアメリカが、その規約を国内法によって無実化してまで自国のエゴをむき出しにしたのである。
 で、政府の外交の恥部はともかくとしても、クジラをめぐる問題はどうなのであろうか?IWC内部の環境も多少改善されてきたようではあるが、今後どのように推移するのであろうか。
 また、例えば、近年、大衆魚である(あった?)イワシが高級魚となっているという。このことについて、正確に捕鯨問題と絡めて言及しているものがあまり見当たらないようであるが、実は、かなり深刻な状況にある。
 ミンクは、シロナガスが減少したためエサが豊富となったため生殖年齢が下がり、どんどんと増えている。そのため、増やすべきシロナガスは相変わらず増えない。不見識にもクジラはオキアミだけを食べていると勝手に思い込んでいた世界中の一般常識は、イワシの減少に至ってはじめてそのことを意識した。きちんとした研究・検証も無くクジラはオキアミしか食べていないと思い続けて来た“ツケ”が回ってきているのだ。このことは、同じイワシを食するマグロ等ほかの魚にも影響が考えられている。これについても、日本がマグロを食べ過ぎるから資源が減少しているとして、クジラに引き続きモラトリアル化する動きもあった。食の文化、いったい何を守り、何を譲歩していくのか。
 環境問題に関しても、京都議定書にも従わないアメリカ、何とかして従おうとしている日本政府。毅然たる態度をとるためには何が必要なのであろうか!?わが国は古く言えば正倉院の時代から明らかに様々なところで環境にやさしい国情・生活形態を維持してきた民族なのである。四日市市なども戦後の高度成長期における負の遺産(公害)を克服し、現在深刻な公害問題が確かに存在するにもかかわらず、悩みすら持たない中国ほかにその技術を移植するための施設を持ち活動していることなど日本中捜しても知る人はまずいないに近いのではないだろうか。教科書に四大公害は歴史として掲載するのは当然であるが、その後の、特に現在の取り組みまでもが掲載されてしかるべきではないだろうか。

 思いつくことを次々と書き過ぎたために取り留めなくなってしまった。次回は、元に軌道修正することとしよう。ただ、わが国の200海里問題とクジラとは切っても切れない関係があることはあまり知られていないのではないだろうか。
 それにしても、世界にアピール出来ない日本と、日本にアピール出来ない四日市。う〜ん!