〔この国の領土〕4

−『海国兵談』に想う−

 『海国兵談』とはいうまでもなく江戸中期の経世家林子平の著書である。このことは、歴史教科書で習うが、わが国の歴史教育の最も欠落した部分はそれらが試験や受験のためだけのものであって、その歴史事象が意味することや他の事象との連関、およびそれらが「今」を考えることに何ら結びつかないことである。さらに絶望的なことには、教えている側がそのことに気が付いていないのか、知っていて無視をしているのか、それどころか歴史学が何であるかさえ知らないか忘れ去ってしまっているのである。何故なら、彼らの殆どが類似の歴史教育を受けてきており、歴史観歴史教育に関わる理論やテクニックすら持たない。であるから、歴史とは暗記の教科としてしか受け取られず、興味も持たれない。歴史が今に活かされるなんてことは望むべくも無い。

 〜林子平は、天明6年(1786)、16巻からなる本書を著した。資金不足により、全巻の刊行は寛政3年(1791)。その後、幕府に忌まれ同年に絶版となった。ロシア船の南下に警告を発し、国防の急務を論じた。〜

 教科書で習うのは、精々がこの程度であろう。

 子平はいう「海国とハ何の謂ぞ。曰地続きの隣国無して四方皆海に沿る国を謂也」「軍艦に乗じて順風を得レば、日本道二三百里の遠海も一二日に走リ来ル也」「備に怠ル事なかれ」「海国の武備ハ海辺にあり、海辺の兵法は水戦にあり、水戦の要は大銃にあり。是海国自然の兵制也」「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路也」
つまり、「海国とは地続きの国が無く、海に囲まれている国をいう。軍艦に乗っていい風を受ければ、2〜300里の遠きよりも日本までは1〜2日で来られるだろう。備えを怠らないように。海国の防御は海辺にあり、海辺の兵法は水戦にあり、水戦の要は大砲である。これは海国では当然のことである。江戸の日本橋から中国、オランダまで境なしの水路である。」というものであろう。
 子平は、如何にして日本を海外からの植民地政策から守るかに心砕いて時の急務なることを説いた。自序で国内外の情勢を記し、水戦の巻で日本海岸総軍備の重要性・必要性を説き、総軍備の具体的方法や手段をいくつも提示している。特に海外を模倣して大砲を作り、軍艦を破るための数々の方法と心得は意を尽くした工夫に満ちている。また、安房・相模の海防の要地における大名配置論をも打ち出している。
 国家としてのわが国をきちんと意識し見据えた上で、江戸湾岸防備の緊急性を説いたのは子平が端緒を開いたものであり、対外問題の切迫をいち早く公にした意義は大きい。そして海防論に現れた強い対外的危機感、西洋列強との並立の欲求、富国強兵論などは、近代日本全体に強い影響を残したものといえるであろう。
子平の予言が半世紀後には現実のものとなったことは歴史が証明している。これにより、二百年もの長きに亘って鎖国という眠りについていたわが国は、浦賀沖に現れた軍船により混乱の渦中に引きずり込まれたのであった。
 現代日本の国境論争には、子平の著書『三国通覧図説』が多分に影響を及ぼしている。彼は、朝鮮・琉球蝦夷と日本との地理的関係、風俗、地図などを一書となした。
 実は、本書がわが国の領土に種々影響を及ぼしている。
 功は、小笠原である。本書は鎖国日本に関する情報の不足していた西欧で翻訳され、小笠原諸島図を収めた地図がヨーロッパで刊行された地図に転用され、小笠原が日本領の無人島として認識されたのであった。幕末に、米英に対してこの地図が功を奏してわが国の固有領土であることが認められたのである。
 罪は、尖閣諸島である。琉球図では尖閣諸島を中国領である地域と同じ朱にて塗ってしまっているのである。これを根拠に尖閣諸島を中国領であると主張するものもある。しかし、この点においては、当時から批判があり、備中の地理学者、古川古松軒は「林子平は自国の地理すら知らず、況や遠き夷国においておや」とやり込めている。しかし、子平は地理学者でも、実際に各地を踏査した探検家でもない。彼は、国防のあり方を憂い、国防の術を説いたのである。であるから、現代人が、彼の図をもって国境を論ずること自体が滑稽ではないかと思わざるを得ない。
 彼の国を思う気持ちに偽りはなかったはずで、彼が憂いをもって述べた内容に思いを致すべきで、その後の各地について、わが国が毅然とした意思表明せずに今日に及んだことが、今日に至るまで近隣諸国との火種として禍根を遺し、深刻な問題としてしまった要因であることは明らかである。 つづく