吉村昭氏の死

 先月、作家の吉村昭氏がすい臓ガンで亡くなった。とりあえず、喪主である司氏に弔電を打ち、公には市長名で、とりまとめをしている新潮社へ打電し、ついでにS編集長にもTELしておいた。
 なかなか、「お別れの会」にまで出かけていくというまでは出来なかったところ、昨日の夕刊や本日の朝刊各紙で吉村氏の尊厳死を伝えた。
http://news.goo.ne.jp/news/fuji/geino/20060825/320060825012.html?C=S
それにしても、昨年、本当に久しぶりにお会いした津村節子さんがめっきり老けられていたのにはびっくりした。そんな年なんだなあと勝手に納得したが、昔の若々しくて気風の良かった彼女のことが思い出されて仕方が無かった。それにしても、昭氏の最期に際して受けた彼女のショックは如何許りであろうか。別の報道によると、書きかけの原稿について、お前(津村女史)が書くべきだ!と言って亡くなられたと言う。彼女が何を感じ、何を考え、如何に表現するのか?不謹慎にも興味があるのは私ばかりではないであろう。
 母も、元気な時に、日本尊厳死協会から資料を取り寄せていたと弟に聞いたことがあった。
 吉村氏は、当時中学生の私に、寿司の食べ方を教えてくれた人であり、醤油のつけ方やえびのしっぽの処理の仕方、客が「あがり」や「むらさき」等の隠語を使うべきではないことなどを教えてもらったのである。平成6年に久しぶりにお会いした時にその話しをしたらきちんと覚えておられた。また、家に泊まりにいく度に落語のレコードのコレクションを見せていただくとともに、得意の落語を聞かせていただき友人と笑い転げたことを覚えている。そして、自分の落語が受けたことを数日後の新聞で見ることになったことなどもあった。
 というのは、長男の司氏とは中学・高校の同級生であり、家にもよく泊まりにいった仲なのである。司氏とは、小諸の学生村(←懐かしい響き!)にもともに行ったり、我々バンドと、そのミキシングや録音者との関係にもあった。また、氏は無類のブルースリーマニアでありやたらにその話しを聞かされたことも思い出す。
 その関係で平成6年には吉村昭氏の講演会を文化会館で開催したり、丹羽文雄氏関係のことについてもいろいろとお世話にもなった。その折には、司氏も同道し、私の馴染みの店でピザとワインをやったものであった。
 今回も、丹羽文雄の展示に関して対談の一人として録音をお願いしようとしていた矢先に病であることが分かり、急遽別の人選を行ったのであった。 
 ところで、寿司の食べ方であるが、私がなかなかに美味いものに出会い多く、その意味からは恵まれていると感じることがあるが、その根源は食べ物に結構執着のあった父の存在にあるのではないか?あちらこちらと食べに連れて行かれたことにも因るのではないか?などと思うことがあるが、実は父からは寿司の食べ方について聞くことは終ぞなかった。
 しかし、吉村氏に食べ方を教わってから暫らくして家族で寿司を食べに行った時のこと、父の食べ方を観察していると吉村氏と同様な食べ方をしていることに気が付いた。そして、私がえびを食べる時、しっぽを人差し指で押さえて食べていると、父が気が付いていた気配がしたが、確かめることはしなかった。教えずとも、自分の食べ方を見ておけ!とでもいうつもりであったのであろうか?
 それにしても、何だか、最近は、昔からの関係のある人の死に際しては、いろいろなことを思い出すものである。これからは、このようなことが多くなるのかと思うとつくづく気が重くなるとともに、反面、それを機会に昔を懐かしんでいる自分にも気が付くのである。