江戸あれこれ 8

 あだ

 いつの世にも、美しい女性はいくらも?いるものであるが、「あだ」っぽい女性というのはなかなか目にすることは無いものだ...。などというと怒られてしまうかも知れないが、「あだ」の観念というのは非常に微妙であると思う。この、「あだ」とは単に美しいという意味ではないのだ。良家の美しい子女といえども「あだ」ではないし、教養のあり余る美女でも「あだ」ではあり得ないのである。(これらの女性は、今でも多くいる)
 だからといって、粗野であるという訳でもない。もちろん、美しいのではあるが、情けがあって小粋で、べたべたでは無い。なんと表現しようか?
 式亭三馬の「浮世風呂」にヒントとなる話がある。
 二人の女が話しをしている。金持ちの商家の内儀が上方風の派手な上方や化粧をし、贅を尽くした風をしているのをみて、これを侮蔑する。濃い化粧について紅がきつくてほろ酔いにみえるだとか、べたべたと助平たらしくてみっともないだとか...。そして、江戸の女の化粧は、諸事婀娜(あだ)とかいって、薄化粧がさっぱりとしてよい、というのである。
 あだ者というのは、粋な女であり、色っぽい女性をさすが、美しいうえに愁いを含み、さらにはその奥に苦労人であり、年増女をいうのである。
 今で言う、「しぶい」二枚目などという美意識が出来始めたのがこの頃であるから、その説明はむずかしい...。下町を徘徊して見聞きした個人的な見解を、誤解を恐れずに分かりやすくいうと、芸能人でいうと気質的には浅野ゆう子宮沢りえのような女性であろうか?(個人的な趣味をいっている訳ではない)
 ただし、年増女といえども、当時では26・7歳が限度であったようだ。
 この美意識は、もともとは遊里から出たものではあったが、次第に世間で使われるようになっていったようである。


 ところで、今朝はブラジルF1GP。シューマッハの最終ランであった。’94年サンマリノで逝ってしまった王者セナを倒さずしてトップに立って、それ以来孤高の王者。
 その引退レースを制したのは、セナ以来母国で優勝を果たしたブラジル人レーサー、マッサであった。シューマッハ引退試合のウィナーがフェラーリの同僚でブラジル人レーサーのマッサであったということは、いかにも感慨深い因縁を感じるが、あのクールな天才肌のセナとは随分雰囲気が違う。むしろ、我々が知っている他のブラジル人の印象からすると、セナの方がイレギュラーだったのであろうか。
 レース全体のイメージからすると、消化試合の感は否めなかった。マッサが早くトップを走っているが、トップから最後尾までタイムの差は殆どなく、2位のアロンソは無事に走って年間タイトルを獲得。
 そのような中で、一人気を吐いていたのが、やはりシューマッハリアタイヤのバーストで最後尾まで下がるが、もう追尾で最終4位!途中何度も失速し、マシーンに何らかのトラブルを抱えていたとみられるが...。とくに、5位から4位に上がった時、自ら次期フェラーリのドライバーに推薦したと噂されるライコネンをサイドバイサイドで抑えて抜き去ったところは彼の意地の見せ所であった。冷静で、勝つためのレースを常に心掛けていたように思われるシューマッハ、そのシューマッハが、がむしゃらに熱く熱く走っていた姿が、本当に皆に好印象を残したのではないだろうか。