靖国問題 7

    すでに戦犯は存在しないということ

 現在、このことを知る人がどれだけいるだろうか?
 昭和26年9月8日、サンフランシスコ平和条約が調印され、その発効が翌年4月28日。それを受けて、2日後の4月30日に国会では「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を成立させている。さらに翌28年8月1日には、同法の一部改正を行い戦犯に対してもこの法律を適用することを国会が全会一致で決定している。また、この援護法の適用にあたっては、戦犯刑死の語を廃して「法務死」の語が用いられることとなったのである。なお、靖国では「昭和殉難者」と独自の名称を設けていると靖国に奉仕する後輩から聞いたことがある。
 そして、当時の議事録には戦犯はわが国にとっては戦争の犠牲者であることが繰り返し述べられている。
 このようにして、わが国は独立国として占領下からも、東京裁判のもとからも脱却し立ち直りつつあったのである。
 戦犯そのものも、昭和27年6月9日の「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、昭和28年8月3日の「戦犯の赦免に関する決議」、昭和30年7月19日の「戦犯赦免に関する決議案」を経て、A級戦犯については昭和31年3月末までに、B・C級戦犯は昭和33年5月末に全員釈放され、昭和32年春、巣鴨プリズンは閉鎖された。此の時点で、戦犯はいなくなったのである。このことは、サンフランシスコ平和条約第十一条の規定に従って関係諸国の了解を得ているのである。正当な根拠もなしに言いがかりをつけてくる中・韓に遠慮しての靖国参拝する姿勢はいかがなものであろうか。
そして、B・C級戦犯は、昭和34年春の合祀祭において靖国に合祀された。
しかし、ここにひとつ問題が残されていた。それが、A級戦犯の合祀の問題である。