大きな政府 ちいさな政府 6

ネオ・リベラリズム

 ネオ・リベラリズム新自由主義)とは70年代〜80年代にかけて英米諸国で政治に大きな影響をあたえたもので、特にフリードマンが最も大きな影響を与えた。
 即ち、政府の積極的な民間介入に反対するとともに、同時に古典的なアダム・スミスなどの考え(自由に個人の利益を追求させ、競争させることが社会全体の利益の増進に役立つという主張)をも排した。
 そして、資本主義下の自由競争秩序を重んじる立場および考え方で、特に70年代以降の国家の経済的困難の原因をケインズ主義に基づく国家の経済への介入と福祉国家に求め、19世紀的な自由放任主義=小さな政府に立ち戻るべきだと主張するものであった。


 言うまでも無く、経済的自由とは、何人も自由意志に基づく自発的意思による契約や取引を制約されたり、自発的ならざる取引を強制されることがないということである。このような経済システムは、競争的な資本主義によるほかない。つまり、個々が何をどれだけ、どのように生産し、どれだけの所得の分配を受けるかが決定される社会なのである。

 個々は、それぞれ個々の利益を追求し、相手の利益を追求するわけではない。しかし、個々は利己的に行動するが、その行動は相手方の利益をも生むことになる。何故ならば、利己的に行動するといえども、経済的交換相手の利益になるモノを提供しなければ、この交換が成立しないからである。
 この理論を初めに説いたのは勿論アダム・スミスである。そこで語られたのが、個々の利己的な経済活動が個々の意思に関らず、結果として社会全体の利益を増進するとして、この作用を評して有名な「神の見えざる手」と唱えたのは周知のことである。


 これに対して、フリードマンは、個々の経済的自由を担保する経済システムは、単なる資本主義ではなく、競争的資本主義であると説く。
 競争的資本主義とは、競争的な市場制度のことで、交換相手が多数いて、自身が交換相手を獲得しようとして競争を繰り返している状態をいうのである。

 しかし、その自発的交換においても、交換ルールが必要なのである。具体的には、このルールは民主主義的制度のもとに、議会において制度化される。そして、それらが不具合であればその構成員を効果出来ることが政治的自由である。

 政府を洗濯する自由の観点から見れば政府は地方分権的である必要がある。
 地方分権的であれば、住民はその構成員を変更する自由もあり、気に入らなければ居住地を変更して、好ましいところに移住する自由もある。
 また、地方分権的であれば、各地方政府は人々や企業を引き付けようと競争する、等々...。


 長くなるので、極々、大雑把に書いたがため、誤りや誤解を生むような箇所、分かりにくい点も多いかもしれないが、このネオ・リベラリズムに基づいてサッチャー政権は改革を断行して行ったのである。