昭和展 3

りんご箱

りんご箱

今回は、入り口近くの物干し斜め下、
或は駄菓子屋の端に置かれたりんご箱に
ついてみてみたい。

いくつ位の方まで、このりんご箱というものをご存知であろうか。
ただ、前回失敗したように、このりんご箱というものも
インテリアのアイテムとして
今でも作られて売られていますので、
そのことは先にお話ししておきます。

ここでは、あくまでも本来の使い方で
使われている状態をご存知か?ということです。

私たちの世代では、このりんご箱というもののイメージとしては、
第一に「机」が思い出されるのです。昭和30年代位までは幼い頃から専用の勉強机なんてありませんでしたから、このりんご箱にデパートなどの包装紙を丁寧に貼って勉強机に変身させるのです。ですから、その上で「あいうえお かきくけこ・・・」とか「1・2・3・4・5・・・・100」なんて覚えることになるのです。
或は、簡易な本箱に変身したり、中身を食べてしまうと残る籾殻で焼き芋をしたり・・・といろいろに想い出はあるものです。


我々より上の世代となると、万能収納箱であったり、
何かというと宅配便なんて無かった頃のチッキの収納箱としても
使われていたようです。

チッキ自体が忘れ去られて久しいですが、旧国鉄が行っていた小口手荷物輸送で、乗客が切符を見せて安価に最寄駅までの輸送を行ってもらえるものでした。
チッキは、私自身も大学の頃何度か利用したことがありますが、
(もちろんりんご箱などでは無く、バッグに詰めてですが)
何しろ駅まで取りに行くのが面倒で…
丁度その頃(昭和51年)から開始されたヤマト運輸の宅配便におされて
10年後に姿を消したそうです。

因みに、皮肉にも宅配便にその名を残す赤帽さんもこの期に廃止されたのでした。


では、話を戻してそのりんご箱はどのようにして出来上がったのでしょうか?
りんご箱の創案者が奥村新助という人物。
話は1896(明治29)年の初冬にさかのぼります。
新助はりんごの見本をたずさえて、神田多町の青果問屋をおとずれました。
当時は、青果問屋といっても主にみかんの卸売りで、
りんごを扱っているところはあまりありませんでした。
果たして最初訪ねた江沢商店では、こういうものは東京では売れませんと言われ、
風呂敷に包んだりんごを投げかえされたとも言われています。
次に三久中島商店へ行ったら、ヤマ丁鈴木商店の主人も来ていて、
「一車くらいまとめてよこすことができるか」と言われと言います。
新助は二つ返事で、喜び勇んで帰ったのですが、
一車というのは、当時の貨車のことで4トンか5トン位の量を運べるか?
ということになります。
そこで新助はりんご専用の箱を考えることにしたわけです。
それまでは石油箱だとか樽だとかを使ったりしていたが、
神田市場に送るとなればそうはいかない。
しかし、専用の箱を作るにしても余り高くついては困る、
ということで製材所の基本の長さになっている1丈板(3メートル余)を無駄のないように切って組み立てる、
しかも中身が40斤(18?)入ってなお傷がつかないように干草などを十分詰められる大きさでなければならない、こうして幾つも作って到達したのが長さ1尺9寸(57?)・深さ1尺(30.3?)・幅9寸(27?)という木箱でした。


http://www.city.yokkaichi.mie.jp/museum/tenrankai/071222.html