昭和展 5

万病感王丸

感応丸

初代正野玄三(:幼名萬四郎1659〜1733)と言う人物、もともと近江は日野の商人で、
漆器などを東北地方などに行商するを生業としていました。
しかし、ある時行商先で郷里にのこした母親が病であるのを知り、急遽帰宅し看病しましたが一向に直らない。

そこで当時の名医名護屋丹水の治療を受けたところ間もなく全快したといいます。  
これに感激した萬四郎は、35才にして意を決して丹水に入門し、医者を目指したのでした。
そして日夜努力して数年後には師の医学を学びとり、名を玄三と改めて開業するにいたりました。丹水の没後は禁裏(宮中)出入りの医師となり、宝永2年(1705)に法橋に任ぜられ、さらには法眼にまでも昇進し名声博しました。


晩年にその職を辞し、郷里の日野に帰ると、日野商人に請われて道中の携帯薬として「五色袖珍方(ごしきしゅうちんほう)」という薬を与えました。それは粉薬であったため、扱いが不便でした。
そこで携帯に便利なように扁平で半月形の丸薬としたところ、壊れにくく、しかもその効能が優れて、人々に大変よろこばれました。そこで、正徳4年(1714)に「神農感應丸」と称して本格的に発売するようになりました。

これが、この感応丸で、諸病に特効があったため、世間では「万病感応丸」と呼んで珍重されるようになりました。

そこで明治10年(1877)の売薬規則の発布に際して、世間の耳になじんだこの俗称を薬名としたそうです。

しかも、この薬、今でも売っているのです。

日野薬品工業株式会社http://skki.shigaplaza.or.jp/skki/CorpDisp.do?corp_no=100003221
旧正野薬店http://local.goo.ne.jp/leisure/spotID_TO-25000728/
http://www.city.yokkaichi.mie.jp/museum/tenrankai/071222.html