照度

今やっている浮世絵展で、入り口に屏風を露出で展示している。
博物館の立場からすると、破格のことなのであるが...
どれだけの方が理解していただけるであろうか。
触ってもらっては困るのあるが、目の前で直に見てもらおうとの試みである。
本来、日本のライフスタイルの中でそのように見てきたものを
そのように見せようとするのである。

であるから、本来は展示台を低くして
腰をかがめてみてもらおうと思ったのであるが、
デザイナーさん達に理解してもらえなくて今の高さになってしまった。

どちらが良かったのか、私の中では未だに結論が出ていない。
来館者が「見る」ということでは今の方が見やすいであろうし、
他の展示物の高さとの整合性もとれる。


しかし、敢えて露出にした意味は別にあったのだが...。


そのことに加えて、浮世絵展を見に来た方々が、
入り口に露出の屏風のあるのをみて
おぉ〜!と思ってもらえることを想像しながら
レイアウトを考えたのであるが、果たしてそうなっているであろうか?


今日、閉館後に助手君に手伝ってもらいながら
少し気になっていたところをいくらか手直しをして、
最期、その金の屏風にまで遣って来た。


照度計で測ってもらうと、すでにそこそこ明るくなっている。
今の時期では閉館後には、外は既に暗くなっており、
照度を上げたとしても、外から入ってきた時の印象まで
測りえないので、断念することとした。
火曜日になって、朝もう一度トライしてみたいとは考えている。
これ以上あげると金が金で無くなり、嫌な照り方をして
あちらこちらでハレーションを起こし始めるのは目に見えたことである。
周辺の縁のハレーションには目を瞑り、
本紙部分の照度を限界まで上げられないものであろうか?

この手のものは、写真を撮る時ですら大変で、
光を当てないようにライティングしながら撮影をする。
厄介なものである。


モノの保全と公開、見せ方と見え方の問題、
脆弱な素材によって作られたもの対象としなければならない
日本の博物館という施設の、常に対面せざるを得ない
基本的な問題に今回も悩まされているのである。


なお、この展覧会に関連して行った同僚Aの講演会の内容から
「明治で忘れ去られてしまった日本画の良さ」との発言についてのご意見があった。

同僚Aの持論として、H.郁夫などは勿論のこと、
Y.大観ですら将来的には残らないであろうという。
私も全く同感であるが、Aの発言を耳にするまでは気が付いてはいなかった。
ただ、H.郁夫は作家としてはいかがなものか、政治的に優れているのは夫人の手腕か?などとは思ってみてはいたが...。しかし、勿論氏の果たした役割としては偉大なものがあるのであるが、あくまでも作品の問題である。

M大のY氏とも話したこともあるが、同意見であった。


伝統的な絵師の世界では、言ってみれば現在の歌舞伎と同様、
小学校にあがる遥かに以前から筆を持ち訓練を繰り返し、
小学校低学年にでもなれば一端の絵描きになる。
明治以降の社会ではこのような絵師を育成する手立てはない。

少なくとも、京都画壇にはその風もあったが、今では...


社会が近代化する...。ヒトをそれを進歩ととらえるが、
果たしてそうとばかり言えるのであろうか?

いろいろな点でわれわれが考えなければならないことは、
世の中のそこら中に転がっているように思えてならない。